真の女性活躍とは・・・周回遅れの日本の社会構造

高市総理の高い支持率については、「初の女性総理」「女性活躍の象徴」「ガラスシーリングを打ち破った存在」といった分かりやすい物語が先行し、政策の中身よりも一時的なブームとして支持が集まっているように感じます。高市総理本人の資質とは別に、ネトウヨ的な応援団が過剰に持ち上げる構造そのものに違和感を覚えます。

同じことは、伊東市や前橋市の女性市長の問題にも当てはまります。明らかに倫理的な疑問があるにもかかわらず、「女性だから」「弱い立場だから」といった理由で、十分な説明責任が果たされないまま、一定の支持が残っているように見えます。特に前橋市長が、他の男性首長であれば行うような「合意だった」という具体的な説明を避けている点には、LGBTや女性という属性を盾にして社会に迎合している面と、それを社会が甘やかしている面の両方を感じます。

こうした風潮の結果、地方社会では「嘘をついても許される」「気に入らない相手を同調圧力で排除する」といった、いわば村八分的な振る舞いが、ごく普通の町の主婦層にまで広がり始めているように感じて怖くなります。これは女性の問題ではなく、「立場のある人が説明責任を免除される社会構造」、つまり社会全体のモラル低下の問題です。

本来の男女同権とは、権利だけでなく、義務や説明責任、過ちへの評価も性別に関係なく等しいことを意味します。しかし現在の日本では、「男女同権」ではなく、「立場や属性を利用した免罪」が起こりやすい社会構造になっている点に問題があります。

EU諸国、とくに北欧のように女性リーダーが当たり前になっている国々の落ち着いた政治状況と比べると、現在の高市政権はあまりにも拙速・全力疾走で、後に続く女性リーダーが自然に増えていくイメージが湧きません。市長問題についても、当事者の甘えだけでなく、「女性は男性とは違う存在だから踏み込んではいけない」という聖域を社会が作ってしまっているように感じます。

制度として男女同権は実現可能でも、同調や空気を重んじ、対立や説明を避けがちな日本社会では、原則に基づいた成熟した男女同権社会に至るまで、まだ時間がかかると思います。「裏で男性が操っている」「女性だから手加減されている」といった疑念が生まれてしまう様な状況では、北欧諸国に周回遅れと言われても仕方ありません。互いに尊重し合い、性別に関係なく、同じ基準で評価され、同じ説明責任を負う社会でなければ、民主主義として成熟した形とは言えないと思います。

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