小説を出版した理由 (4) (ちょい悪行動)

かつて昭和世代の若者が、喫煙や飲酒、不純異性交遊、エレキギター、学生運動、ヒッピーといった「ちょい悪行動」に惹かれたのは、単なる反抗心からではありませんでした。それは、既成の道徳や社会の常識に抗い、「自分たちは新しい時代の担い手だ」と感じたいという、『夢を求める行動』だったのです。
当時は、多少道を外れても、親の世代より良い生活ができるという見通しがありました。社会には『戻れる場所』があり、失敗してもやり直せるという安心感がありました。
生活基盤は比較的安定し、欧米や知識人、文化人といったロールモデルも存在していました。社会全体が「これから良くなる」という空気を持ち、若者は前向きな流れの中で生きていたのです。即ち、当時の「ちょい悪行動」は破壊衝動ではなく、上昇志向の裏返しでした。
一方、現代の若者を取り巻く環境は大きく異なります。実質賃金の長期低下、正規・非正規雇用の固定化、社会保障への不安、地政学リスクや気候変動、AIによる職業不安、そして物価上昇----こうした不安要素があふれ、情報が多すぎることで、若者は「何を選べばいいのか分からない」状態に置かれています。つまり、『夢を描けない』のではなく、『夢を描くための前提条件が見えない』のです。さらに、一度つまずくと、正規雇用に戻れない、信用やクレジットを失うと回復が難しいという『戻れる場所』のない社会になりつつあります。
追い打ちをかけているのが、成功物語の虚構化です。SNSやメディアでは、投資や起業、インフルエンサーとして成功した話があふれています。しかし実際には、成功は「実力」と同時に「運や偶然」に大きく左右され、到達できる人はごく一部です。
現実の若者は、学歴や職歴、資格といった“見えない壁”にぶつかり、「真面目にやっても報われない」という感覚を強めています。雇用の現場では、労働が「コスト削減の対象」とされ、単純作業や3K仕事は、外国人労働者や短時間労働者、高齢者が担う構造が広がっています。その結果、中堅・下位層の大卒者にとって、夢のある仕事に就く道はますます狭くなっています。
こうした状況の中で、SNSやゲーム、短尺動画、エンタメは、現実から一時的に回復するための装置になっています。
しかし、一度社会から外れると、再び戻る道が見えないため、闇バイトや特殊詐欺、多重債務といった、社会規範から外れた行動に引き寄せられやすくなります。
これは、反抗文化ではありません。社会から排除された結果としての行動です。
更に問題なのは、そこに浴びせられる「自己責任論」や上から目線の説教です。それは若者を立ち直らせるどころか、追い詰めるだけです。解決のために必要なのは、次のような『社会設計』です。
◎まず、失敗を前提にした仕組みを作ること。
年齢に関係なくやり直せる職業訓練、借金や失敗に対するセーフティネット、正規・非正規の統一等、規制の壁を低くする制度設計が必要です。
◎次に、ロールモデルを「身近な成功」に置き直すこと。
派手な成功ではなく、地元で安定して働く人や、3Kを含めた技能職や中小企業のプロフェッショナルといった、等身大の成功像を可視化することが重要です。
◎そして、刹那的なエンタメを否定するのではなく、「次」につなげる導線を作ること。
ゲームはITスキルへ、動画編集は仕事へ、SNS運用はマーケティングへ等の、社会参加に変換する回路を用意する必要があります。
否定ではなく、社会と再びつながる道を用意すること。それこそが、日本の将来を真剣に考えた時に、現代の若者支援に本当に求められていることだと思います。
拙著『コペンの秋』の主人公・恭(やすし)もまた、進学に失敗し大きな挫折を経験します。自分の進むべき道を見失い、劣等感や焦燥感を抱えながら、彼は次第に「ちょい悪行動」へと足を踏み入れていきます。私はその過程を、できるだけ克明に描きました。
『コペンの秋』で描いた恭の姿は、過去の一青年の物語であると同時に、「人は挫折しても、社会の中で揺れ動くことが許されていた時代」の記録でもあります。現代との対比を通じて、「今の社会は、若者が恭のように迷うことすら許さなくなってはいないか」-----その問いを、読者に投げかけたいと思います。

